3日後に書くブログ

映画を観た約3日後に感想を書きます。あとは好きな俳優への愛の吐露

『インターステラー』を観て3日後に思うこと/他者への貢献と自己愛

2017年2月18日(土)自宅にてDVDで『インターステラ―』(原題:Interstellar)をやっと観ました。TSUTAYAアプリで確認したところ、ここ3カ月で5回借りては観ずに返すということを繰り返していたようです。噂に違わずおもしろかったのでもっと早く観ておけばよかったと思うし、というかなんでいままで観てなかったんだろうな???

5次元空間や惑星の表現についても書きたいことはありますが、今回はいま観たからこそ思うことを中心に感想を書こうと思います。

 

以下映画の内容に触れるためネタバレしています。ご注意ください。

 

 最近のわたしは就職活動をしたりしなかったりしていて、先日企業の方とお話する機会があったのですけれど、その方に「うちの会社に興味を持ってくれる人がいてその人の熱意がこちらに伝わってきたとしても、じゃあその人を雇ったらこちらにどんなメリットがあるのかわからないと厳しい、一方通行じゃあねえ…」「あなたを雇ったらうちにどう貢献してくれますか」といったことを言われました。

これめちゃくちゃむずかしくないですか?そりゃ企業側にメリットがなければ雇う理由はないっていうのはよくわかるんです、でもまだ社会に出たことがない人間がどんなメリットをもたらすことができるか、なんて本人が明確に言えるはずなくないですか。それでもここで働かせてほしくて、この企業が好きだから貢献したいって気持ちがあるよ、ってだけじゃあだめなのかなあと思ったりしたんです。(というかほんとに困っているのでよかったら大人のみなさま就職について教えてください)

 

それ以来「ところでわたしはこれまで自分の身近な人や所属する組織に貢献しようと思って行動したことが、いったいどのくらいあっただろうか」ということを考えているんですけど、ほとんどないなあと思う。自分がしたことで他人が喜んでくれるのはうれしいことだけれど、それは自分がしたいかしたくないかで選んで行った行動の結果としての話であって、はじめから誰かに対する献身的な気持ちで動いたことなんてほとんどなかった気がします。

このことに気付いてから、なんだかすごく反省しているし、恥ずかしい気持ちにもなるし、自分を変えたいとも思うし、でももしかしたら生まれつきの性なのでは?とも思うし、逃げて隠れてしまいたくて、自分の身近にいてくれている人たちやどこか知らないところで苦しんでいるわたしがなにかしてあげられるかもしれないはずの知らない人に心の中で謝っている。苦しくてよくわからない。

 

とここで映画の話なのですが、そんなわたしにとって「人類生存のために移住ミッションをこなす宇宙飛行士」なんて感嘆の域に達していて、尊敬するし憧れるし、もはやそんなにわかりやすく他人の役に立てるなんて羨ましくってありゃしないってかんじなんですけど、そのなかでもやっぱり「貢献」に成功する人とそうじゃない人に分かれてしまうのがひたすらに悲しいなあと思いました。

全編にわたってクーパーは自分の子どもたちが生存すること、いま地球にいる人々の未来を守りたいと思いプランAの達成を目指している。一方マン博士は、いま地球で生きている人々を犠牲にしてでも、人間という種の滅亡を防ごうと考えていて、自分の家族ばかり気にするクーパーに批判的な目を向けることもある。

しかし、結局マン博士はああなってしまうわけで、人類のために!なんて高尚な目標を掲げた優秀な人間でも、結局私利私欲のために破滅してしまうのはとてもつらい。

わたしは大学で一種の国際関係学を専攻していて、勉強するにあたっては、世界をいかにリアルに想像できるかが重要であると思っています。自分が今いる場所から遠く離れた場所で起きていることをいかに鮮明に思い浮かべることができるか。島国に暮らす私が、大陸のつながりを、横断する人々の波を、そのひとりひとりの表情をいかに詳細に想像できるか。このことがどんな問題を考える上でも大切なことだと思っています。

そこで、マン博士には救う対象として鮮明に思い浮かべることができる人間が一体何人いたのだろうかということが気になりました。クーパーには明確に娘息子の顔が浮かんでいて、彼らを救うことこそが人類を救うことだったけれど、長年宇宙でひとり眠っていた博士にとって明確な貢献対象はいたのだろうか。唯一明確に認識できる人間は自分であり、ぼんやりとした「人類」よりも自己への貢献こそが彼の人間愛だったのではないか。そう考えると、彼が私利私欲に走ってしまったことも、悲しいけれど納得できる気がします。

時間も空間も超えるものは愛であり、他者への愛でも自分への愛でも、行動の原理になりうるのだと思います。さっきは「どこか知らないところで苦しんでいるわたしがなにかしてあげられるかもしれないはずの知らない人」なんて言葉を使いましたけど、知らない人に対する愛は存在しにくいから、そんな人はいないのかもしれない。自分を突き動かす愛はどんな種類のものだろうか、できれば他人に対するものでもあってほしいなあと思いました。おわり。