3日後に書くブログ

映画を観た約3日後に感想を書きます。あとは好きな俳優への愛の吐露

『ラ・ラ・ランド』を観て3時間後に思うこと/愚かな夢追い人でありたい

5月31日追記しました。

 

ラ・ラ・ランド』(原題:La La Land)観ました。この熱をなんとしても記録しておきたくて、取り急ぎ感想を書きます。2月24日(金)TOHOシネマズ梅田スクリーン1で鑑賞です。

 

 

以下映画の内容に触れるためネタバレしています。ご注意ください。 

 

映画館でこんなに涙したことがあっただろうか?というくらい、泣いて泣いて泣いてしまいました。

オープニングで涙が溢れてきて(タイトル出た時点でほんとはスタンディングオベーションしたかった)(基本的に大人数が歌ったり踊ったりしているとそれだけで号泣してしまう)、パーティ行くまでで泣いて、パーティで泣いて、朝焼けのダンスで泣いて、映画館に走る姿に泣いて、グリフィス天文台で泣いて、夏で笑って、
「さらばポールダーシティ」で泣いて、実家で泣いて、オーディションで泣いて、オーディション後も泣いて、そしてジャズバーで泣いて、泣いて、泣いて、泣いて…

エンドロールもミアの歌声に震えが止まりませんでした。
これはもしかしたらセブにとっての救いであり呪いになってしまうのかなって、あの部屋でふたりで歌った思い出を抱きしめながらこの先きっと交わることなく生きていくふたりのことを思うと、どうしようもなくてただただ涙を流すしかなかった。


この映画にはたくさんの "if" が散りばめられていて、もしあのときああしたら、しなかったら、そういうことをいくつも考えてしまうけれど、たくさんの "if" の中には必然的なものが絶対にあって、そういうものを掴みに行くのが夢を叶えるってことなんだなと強く思いました。

最も印象的な台詞のひとつが、オーディション後のふたりの会話で、ミアは "if I get this job," と口にするけれど、セブは頑なに "when you get this job,"と言う。

たくさんの "if" の中の必然的なものが今このときだということを、セブはミア本人よりもわかっていて、背中を押す手は優しいけれど引き返すことを許してはくれない。「君は絶対にこの仕事にすべてを持って打ち込まなければいけないんだ」と伝えることは、本当に優しくて、力強くて、同時に残酷でもあると思いました。

でも夢を追うというのはリスクを取りに行くということだから、

夢を追う人はきらきらしていて、きらきらのためには払わなくちゃいけない犠牲や手放さなくてはいけないものがいくつか(いくつも)あって、そういうものやタイミングを見極めてチャンスをものにしていくことが夢を叶える上で必須なのだと思う。セブはあのタイミングでミアの背中を押すと同時に、きっと自分の夢のために再始動している。愛していると伝えあったふたりの夢がふたりで居続けることではないことをふたりとも自覚しているのです。もちろんふたりの出会いも必然のひとつで、出会うべきところで出会っている、だからこそ別れるべきところで手を放す。

 

チャゼル監督はパンフレットで「人は人生において、自分を変えてくれて、なりたい人物になれる道筋を作ってくれる人と出会えるけれど、最終的にはその道をひとりで歩まなければならないということだ」という話をしています。

結局、人はひとりではないけれどひとりだから、だからこそ自分の人生が自分のものになるのだと思う。自分の夢を自分の未来にできるのは他でもない自分であって、誰かに頼ったり期待するものじゃない。自分の人生を誰かに奪われないためには、自分の夢の実現に向けて自分の足で歩いていかなくてはいけないのだと改めて思わされました。自分に自分の夢をもたらせるのは自分しかいないから、自分で進むしかないから、だからこそ自分の夢と未来は自分のものなのだ。

 

他の印象的な台詞と言えば、実家に迎えに来たセブとの口論のシーンで、「君は赤ちゃんだ」というセブに対してミアが言い返す「夢を変えてあなたは大人になったわね」です。夢を変える、つまり真の夢を諦めることは大人になることなのだろうか。大人になることは夢を諦めること??

オーディションでミアが歌ったおばさんの言葉、"A bit of madness is key to give us new colors to see"「少しの狂気が新しい夢を見せる」というのもすごく印象的でした。

夢を追いかけるには愚か者に、狂人にならないといけないのかもしれない。夢を追いかけて叶えてみせるにはそのくらいのエネルギーが必要なのだ。理性を持って直感に従い、多大なエネルギーを持ってチャンスに突っ込んでいくこと。そういう、そういうことが大事なんだな、って。そう。

 

わたしはまだ大人になることを選べないから。夢を追いかけていたいから。こういうことは肝に銘じていきたいのです。いつか夢を諦めたときにこの映画を観て流す涙はきっとしょぱすぎる、そういうことじゃない、わたしはいまこの映画を観たから、いっぱい示してくれていっぱい受け取ったから、這って狂ってでも追いかけなければいけない、そういう夢がある、いまこの映画に出会えたことも必然なんだって、そう思いたい。


こんなに心を動かされるなんて、やっぱり映画はすごいなあと改めて思います。映画の持つ力のこと、これからも信じていきたい。諦めたくない。叶える。

 

ここからは小ネタです。素敵な映画をどうもありがとう。

・ガールズのルームシェア混ぜてほしい

・わたしもピンヒール欲しい

・ミアのお洋服全部真似っこしたい!

・ごずりんはほんとにネイビーとベージュのスーツが似合う

・ショルキー持ってるときはださすぎて笑った

・クリスマスの夜、セブがJ・K・シモンズ演じるオーナーに呼ばれたとき、「ファッキンテンポ!」って怒られないかどきどきした
・What a wasted lovely night のセブソロ、”night”の歌い方ちょうかっこいい
・ミアが失敗してしまった劇場の前の道、劇場に対して緩やかな谷の坂道で、ここが谷の底だなって、これから上がっていくよって

・ありえたかもしれない現在のことを考えるのは死ぬ時で十分なんだとおもう

・ふたりだってまだ夢の途中かもしれない

 

以下2017年5月31日追記分です。

映画を見た後の数日間この映画についていくつかツイートをしていたので、今更ですがここにまとめます。

 

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このおぎすさんのツイートRTを読ませていただいて思ったのはふたりが一緒にいるエピローグの世界線でのセブはバーを持つ夢を諦めてミアと一緒にいるというより彼女と一緒にいるというミアと出会って生まれた新たな夢を叶えた姿だったんじゃないかな

ミアと関係を持つようになってからセブの優先順位のトップはそれまでの「バーを開くこと」から「ミアと一緒にいること」へと変わっていたんじゃないかな?
だからこそセブはミアとの将来を実現可能にするためにお金を稼ごうとバンドに参加した。

ミアと出会って夢が変化していったセブの一方で、ミアは最初から最後までひとつの夢を貫いている。
そしてお互いに「相手も自分と同じように、夢を変える/貫く」ことを当然だと思っていたんだと思う。だからこそセブは舞台の準備を中断してツアーに来ないか?って聞くし、ミアはあなたのバーを開くって夢はどうなったの?って聞くんだよね。

だから、エピローグの姿こそがふたりがそれぞれの一番の夢を叶えた姿であって、
現実でセブは念願のバーを開くけれど、それはミアとの将来という夢に破れた結果だったのかもしれない。最終的に開いたバーの店名がこだわりのチキンスティックじゃなくってSeb'sなのも、彼の最も叶えたかった望みを示唆しているように思います。
 
 

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ララランド、今日友人と話題になったのはエピローグの「おとぎ話」箇所はいったいだれのなんなのかという点。

はじめわたしはあのエピローグを「ミアがSeb'sに座って想像した『ありえたかもしれない未来の姿』」だと思ってたんですけど、「ジャズクラブを構える」という昔からの夢を叶えた元恋人を前に、「彼がこの夢を捨てて女優のわたしについて来て幸せになった姿」を想像する人間なんているでしょうか?たぶんいなくない?もっとも以前のツイートにも書いたように、エマはセブにクラブを開くという夢を叶えてほしかったはずです。だからむしろ、それぞれの夢が叶ったことに感激していたかもしれない。よってこの考えは不十分かなと。

次に、あのエピローグを「セブが叶えたかった『ふたり一緒の未来の姿』(がピアノを通して溢れてしまった)」と考えることもできますが、個人的にこれには納得できない部分があって、
というのもあれはセブが自分のクラブを開くという夢を諦めてついていけば叶えられた程度のものだからです。もちろんミアはその夢を追いかけているセブがすきだから、彼が夢を諦めた瞬間に百年の恋も冷める可能性はありますが、それでも「君と一緒にいて君を支えることが僕の新しい夢だ」とかなんとか言ってりゃ叶えられた気がしませんか(実際にセブの夢はクラブを開くことからミアと一緒にいることに変わりつつあったのではないか、というのは以前のツイートに書いた意見です)?オーディション後のやりとりでセブはミアに「君は仕事に集中しなければ」と伝えていたから、フランスにはついて行けなかったと思いますが、その後にチャンスはあったと思います。
またセブの「こうしとけばよかった〜!」という後悔が溢れてしまった、と考えることもできますが、そんな後悔を抱えたままクラブを開いて成功をおさめられるほどセブは意思の強い男だったっけ…??ある程度覚悟を決めてがんばったからこそクラブも繁盛しているのだと思うし、ちょっと違う気がする…

そうなるともうあのエピローグは、監督の観客に対する「お前らほんとはこれを期待して見に来たんだろ?ざんねんでした〜〜〜」でしかないんですよね。空白の5年間に実際何が起きたのかはだれにもわからないですが、あのエピローグの出来事は確実に起きていない。「あ、ほんとはこれをご覧になりたかったんですよね、どうもすみません、ぼくはそういうストーリーを描けなかったのでせめてエピローグでお楽しみください」って可能性も考えましたけど、あのチャゼル監督だぜ??セッションを撮った男の作品だってこと、ララランドの魔法で忘れかけていた…